あなたの期待に応えられなくて、ごめんなさい[3] ー接客業を挫折し続けてきた私の罪悪感ー

挫折した接客業の夢

前回の記事の、続き。
今日で、完結です。

(また明日、と言って、更新が1日空いてしまいました。
3日坊主とはいいますが、
それ以下は何て言うんだろう…笑)



5回の挫折で、
接客業への憧れを
燃やし尽くしたことにした私は、
事務を選ぶことにした。

もう、苦しいのは嫌だと思った。

やりがいのためではなく、
生活のために、
お金がもらえればいいと思った。

当時の私には、
自分が感動できるほど楽しいことよりも、
刺激的で夢中になれることよりも、
死ぬほど苦しくないことだけが、
一番重要だった。

ちなみに、
事務を否定するわけでは全くない。
どんな仕事も、
その仕事なりの魅力があると思うから。

ただ、
ずっと接客を目指してきた私にとっては、
接客以外の仕事を選ぶことが、
諦めのように感じてた。


次が決まっていない状態で、
辞めてしまった私は、
日々重なっていく先が見えない不安とか、
減っていく預金額とか、
世の中で、
自分の時間だけが上手く進んでいないような焦りとか、
足元で渦巻いている暗闇に落ちないよう、
必死だった。

でも、当時の精神状態で、
新卒約1年で退社、事務未経験、
というハンデを背負って、
自分と向き合いつづける時間は、
今思い出すと、永遠みたいに思えた。

自分の心の声ではなく、
会社に認めてもらえるような言葉で、
志望動機を書くこと。
面接官の前で自分を語ること。

違和感に目を背けて、必死に演じようとしても、
上手くやり切れずに、
落ちてしまうこと。

そんなことを繰り返す度に、
そこにいる自分が、
本来の自分から、
遠ざかっていくような気がしてた。



実家の家族は、
私が辞めると言ったとき、
反対はしなかった。

叔母は、
「だから接客なんて、向いてないって言ったじゃない」
と、直接は言わないまでも、
いかにも言いたそうだった。

父方の祖母と、叔母は、
資格をとれ、
こんな仕事ならどうか、
と、心配してくれた。

でも、その心配が、
何よりも、苦しかった。

自分の心が、
侵略されている感じがして、
私は心配というものをされる度に、
息が詰まりそうだった。

「私は大丈夫だから、
考えて、ちゃんとやっているから、
信じてほしい…」
やつれた心で、
吐き出すように言うのが、
精一杯だった。





仕事を辞めて、
2ヶ月ほどたった頃だった。

数十社落ち続けていた私のもとに、
やっと、採用の連絡がきた。


興味があった業界ではない。
希望の条件だったわけではない。

だけど、
もう、私を拾ってくれるのなら、
どこでもいい、というのが、
本心だった。

私には、選択する力も、
自分の足で歩く力も残ってなくて、
ただ、ぬるりと転がるように、
その会社への入社を決めた。



そして、4年間の月日が流れた。


仕事というものは、
生活のためにお金を稼ぐだけのもの、
という合言葉を胸に、
夢中になることを諦めたあの日から、
4年が経った。


この4年間。
いっぱい泣いて、
いっぱい笑った。
何度転んでも、懲りずに恋を追いかけた。

仕事では相変わらず、
罪悪感を発揮して、
電話対応をするときに異常に緊張したり、
ミスをしたときに、
異常に落ち込んだりしている。


でも、
自信がない自分の心をひた隠しにして、
お客様に笑顔で商品を勧めないといけない状況は、
ここにはなかった。

自分の実力を、
プレッシャーがかかる状態で
試される状況もなかった。

できないことがあっても、
基本、放任だった。

自分のペースで、私は息ができた。

完璧な自分でいなくてもいいことは、
誰かの期待に応えなくてもいいことは、
ボロボロだった私にとっては、
安心できる避難場所だったのかもしれない。


不満なら数えきれないほどあって、
やめようとしたことも何度もある。

でも、なんとか、続いている。


仕事で温存した分の情熱は、
これまで以上に、
恋愛に放出されるようになり、
苦しい恋愛もした。

そして、
死んでしまうと思うほどの嫉妬にさいなまれ、
根本師匠のカウンセリングに
不本意にも幸運にも出会うことになる。

お母さんのこと、
家族のこと、
ずっと我慢してきたことが、
私のとてつもない息苦しさと
底なしの寂しさの原因だったこと。

師匠のブログを片っ端から読み漁り、
自分が紛れもない武闘派であり、
かつ師匠の主要顧客層ど真ん中であると
理解するのに、
時間はかからなかった。


そして、
革命的にいい女になって、
私を振ったあいつを見返したいという一心で
私の心に希望を灯してくれた
師匠のカウンセリングを学びたくて、
師匠に弟子入りすることになる。


自分でも気づいていなかったものを、
少しずつ少しずつ、
認めて、
癒して、
過去の荷物をおろしてきた。

たくさん泣いて、
一歩一歩、
ありのままの自分に戻りながら、
生きてきた。

一緒に悩んでくれる、
大切な仲間もできた。

そして、
いい女になれる革命など、
起こせないことを悟った(笑)


それは、
革命なんて起こさなくても、
ただ、自分で自分を認めるだけで良い、
ただ、それだけで、いい。
という、
優しい気付きだった。

でも、優しく見えて、
それが一番、難しかった。



カウンセラーになったら、
悩まなくなると思ってた。

そんな自分を張り倒して、
目を覚まさせたい。

悩まない未来なんて、
私にはないと、悟った。

それならば、
悩み続けながら、
それでも前に進む
私の生き様そのもので、
誰かを勇気付けたり癒したりできるカウンセラーになろう、
と、思った。

そして、今、
こうして、私はカウンセラーをしている

と、言えたらいいのだけど。

そんな綺麗なオチは
まだあっしには早いようで(笑)


私は今も、
カウンセラーの仕事を、
お金をもらっては、
始められていない。

忙しいという
例えるならば
古代エジプトから使っているような
安定感と歴史のある言い訳をしてきたけど、

本業と使う脳が違って、
スイッチの切り替えが上手くできない、とか、
芸術家気取りなことを
言ってきたけど、

本当は、
目の前の人の期待に、
応えられないかもしれないのが、
まだまだ、怖かった。

お弟子さんが終わっても、
ブログを何本書いても、
とてもとても、怖かった。

まだ、
お金をもらえるような自分ではない。
ちゃんと期待に応えられるようになったら、
始めよう。

そんな気持ちが、あった。







接客業を追いかけた、
私の5回の挫折にも。

そのときそのときに、
自分を納得させるだけの、
もっともらしい理由があった。

だけど、今はわかる。

それは、
できない自分を感じることからの
逃げだったこと。

目の前の人を、
喜ばせられないことが、
期待に応えられないことが、
怖くて怖くて仕方なかった。

私の今できる精一杯なんか、
たかが知れていて、
認めてもらえないと思ってた。

よく見せよう、
上手くやろう、
という思いで、
私は私を追い込んできた。


その苦しいほどの完璧主義は、
裏を返せば、
できない自分に価値はない、という、
ありのままの自分に魅力なんてない、という、
私の自己否定。

ありのままの私のことを、
私は信じることができなかった。
ありのままの、足りない自分では、
人前に立つ資格なんて、
ないと思った。

できない私を、
上手くいかない私を、
他の誰でもなく、
私が、許せなかった。


完璧な私なんて、
存在しないのに、
存在しないものに、
必死になろうとしていた。

完璧じゃない私を、
許すことができなければ、
認めることができなければ、
夢の場所に居続けることなんて、
できなくて当然だった。


私は、
自分の価値を、
誰かに証明してほしかった。

自分の価値を、
証明できる、誇れるような何かがほしかった。

自分で証明できないから、
自分以外のものに自分の価値をゆだねて、
そして、認めてもらえないと、
泣いていた。


だけど、
本当に欲しかったのは、

私を満たし続けてくれる誰かじゃなくて、
私を夢中にさせてくれる何かじゃなくて、

私の価値を、
認めてくれる私、だったんだね。


できないことがあっても、
大丈夫って、
私のことを、
信じていてくれる私。

失敗しても、責めないで、
絶対、味方でいてくれる私。

夢が叶わなくても、
好きな人に好きになってもらえる
私じゃなくても、
それでも、抱きしめてくれる私。

誰かの期待になんか応えなくても、
理想通りの自分と違ってしまっても、
許して、受け入れてくれる私。

ありのままの私を、認めてくれる私。


そんな私が、ずっとずっと、
欲しかったんだね。


少し、時間がかかってしまったけど、
あの頃、
どうしてあんなに苦しかったのか、
今、わかったよ。


ずっと責めていて、ごめんね。

あんなにも苦しかったのを、
弱いせいだと、
突き放してしまって、ごめんね。

ボロボロになるまで
傷つけ続けてしまって、
ごめんね。


許せる愛とか、
全てを受け入れる愛とか
少し前の記事で偉そうに言ってたのに(笑)
困ったなあ。

私は私のことを、
こんなに許していなかった。
私のことをこんなに責めていた。
私にこんなに厳しかった。


私の中にあった強烈な、
『期待に応えられなくてごめんなさい』は、
家族や、叔母さんに対する思い。

大好きだからこそ、
期待に応えたかった。
自慢の娘でいたかった。

みんなが私に期待したような、
堅実で安全な人生を選ばなくて、
ごめんね。

安心させてあげられなくて、ごめんね。

そんな風に、思ってた。


私が家族に言ってほしかったのは、
「資格を取りなさい」でも、
「それで大丈夫なの?」でも、
「あんたはこうしたほうがいいよ」でもなくて、

「愛なら、絶対に大丈夫だよ」

という言葉。

ただ、信じてほしかった。

でも、
自分を誰より信じていなかったのは、
私だったのかもしれない。

家族は、
いつも、応援してくれていた。
反対しても、結局は、
私の選択を応援してくれていたからこそ、
今、私はここにいられる。

それを、
受け取ることもできないほど、
ずっと自分を責めていた。


そして、何より、
大好きな家族の言葉を、
いつかの誰かの言葉を、
真に受けて、
こんな私じゃ、だめなんだ、と、
ずっと私に言い続けてきてしまった、
私自身に対する、思い。


昔の私が私に期待したような、
情熱を持てる仕事につけなくて、
ごめんね。

ずっとやりたかったことに、
挑戦し続けられなくて、ごめんね。
諦めてしまって、ごめんね。

上手くできない私で、ごめんね。
頑張り続けられない私で、ごめんね。


あなたが期待するような私になれなくて、
ごめんね。


私はずっと、
そんな、気持ちだったんだね。


ずっと、心細かったね。

苦しかったね。

さみしかったね。


もういいよ。
もういいんだよ。

ありのままの私を、
私は、
ちゃんと認めているよ。


できないことがあっても、
味方でいるよ。

上手くいかないことがあっても、
大好きだよ。

どんなあなたでも、
愛してるよ。

自分らしく、
笑って生きていてくれるだけで、
それだけでいいんだよ。

だから、もう、
価値を証明する必要なんてないよ。

何かを頑張らないと、
誰かに認めてもらわないと、
価値がないなんて、
そんな寂しい思いは、
もう、しなくていいよ。

もう、好きなように、
生きていいんだよ。

あなたは、
今のそのまんまで、
私にとって、たった一人の、
自慢の私だよ。

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